ブログ更新を忘れていました。割り込みですいません。
ネットを見ていたら発見したので抜粋・編集をしてお届けします。
たけし軍団を創設した初期は数多く入団し、退団して出入りが激しかった
そんな頃、たけしの金庫からはちょくちょくお金が無くなっていた。
勿論それは弟子である軍団のメンバーが取った事に間違いは無かった。
しかしたけしはそれを知っても誰も責めなかったらしい
軍団上層部(そのまんま東・ガダルカナルタカ等)が責任を感じ
犯人探しをしようとしたらしいのだが、被害者のはずのたけしは
「そんな事する暇あるなら芸を磨け!」と逆に叱咤したらしい。
ビートたけしが「ツービート」最後の漫才の営業が終わったあとで
相方のビートきよしと久々に飲んだ。
それまでは移動の新幹線の車両も楽屋も別で、舞台の上だけでしか
相方の顔を見ることはなかったけれど、最後の夜には 二人でビールを注ぎあったらしい。
自分たちの漫才の時代ではないことを感じて舞台を降りた。
その夜は、おたがいに間近で見ている苦労時代があふれだして
たまらない気持ちになって、泣いて泣いて倒れこむまで飲んだそうだ。
たけしと軍団が「フライデー編集部襲撃事件」で捕まった時
深夜に襲撃し、駆けつけた警察にたけしと軍団が連行される時に、たけしが警官に向かって
「こいつらには手錠しなくてもいいでよね?」 といい手錠を掛けさせなかった。
そして軍団の面々に向かって
「こんなことになってすまなかったなあ。」と一言だけ言ったそうだ。
この言葉に襲撃に参加していた軍団メンバーは号泣、結束とたけしへの忠誠が高まった。
マスコミがたけしの実家に押し寄せて母・北野サキにコメント求めた時
「あんなどうしようもないのは、死刑にでもしてください!」
と一喝してマスコミを呆然とさせた。
その後話を聞いたたけしは電話で
「なんてこというんだよ!」
と怒ったが、サキは
「なに言ってんだい、ああでも言わなきゃ騒ぎがおさまらんでしょ」 と返した。
下手に「申し訳ない」と言ってしまえば尚更叩かれる。
一番たけしを庇うべき存在がこき下ろせば、マスコミは何も言えなくなる。
息子を思えばこそ、あえて攻撃する事で守った母の愛だった。
つまみ枝豆はビートたけしによる「フライデー編集部襲撃事件」に参加できなく、それに責任を感じて
講談社側の記者会見に乗り込んで刺し違えようし、家を出ようとした。
その直前にたけしから電話がかかって「何もするな」とお達しを受けて思いとどまった。
たけしは直感的に枝豆を止めておかねばと感じて、拘置所で何とか願い倒して
枝豆にだけ電話をかけたらしい。
つまみ枝豆は柔和なテレビの顔とは違い、実はかなり暴力的で粗暴な人間で
当時軍団内での暴力沙汰で後進の軍団員をどんどん辞めさせていたらしい。
それを知っていたたけしは、あえて枝豆には連絡せずに襲撃に参加させなかった。
そんな彼の性格を全て悟り、掛けた電話だったとの事。
この1本の電話がなければ、最悪の場合死者が出て
たけしはその後過去の人になっていたかも知れない。
そのつまみ枝豆が大阪に仕事で行った時、笑福亭鶴瓶がたけし軍団をすごくよく世話してくれて
「何で俺らなんかを?」と思って鶴瓶に尋ねたら
「昔若い頃に東京進出に失敗した時、たけしさんがテレビ局のプロデューサーに
「鶴瓶をこのまま大阪に帰すのか?」と言ってくれた と聞いて
またたけしを好きになったと言う。
「フライデー編集部襲撃事件」の謹慎中に マスコミを避けるために沖縄へ渡ったたけし。
当時芸能界の頂点を極めていたたけしだったが、事件によって周囲の「友人」達は手のひらを返し
誰も会いには来なかった。
しかし、そんな時に唯一きてくれたのが漫才ブームを共に戦った戦友の島田洋七だった。
当時B&Bを解散し、次への道を模索していた洋七であったのだが
これに痛く感動したたけしは、この後設立した「オフィス北野」に彼を呼んでいる。
(現在は吉本興業に復帰し、B&Bを再結成している)
フライデー事件でコメントを求めにきたワイドショーのレポーターにタモリが
「もし俺がたけしに何か言いたい事があるなら、会って直接話をする。
だいたい、友達同士の大事な話を校内放送でするヤツはいないだろう。」
と、取り合わなかった。
当時タモリとたけしは仲が悪いという説があり、それが間違いであるという印象的な一言になった。
この噂の真相は、2人は当時「あまり仲良くするのも都合が悪いから、テレビではあまり関わりあわないようにしよう」という約束によるものだった。
後年BIG3と呼ばれ、ゴルフや27時間テレビで共演するようになって、これらの噂は無くなった。
「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」の企画で
参加していた芸人達の前で、たけしは採石場に特設された小屋に入り縛られ
1分以内脱出できなければ火がつくという引田天功の大脱出を模したドッキリをし
たけしが脱出できず火が付き、予想よりも火の回りが激しく
倒れない筈のやぐらが倒壊するという演出があったのだが
まだ燃える小屋に参加していた渡嘉敷勝男が危険を顧みずに突進していった
ボクサー引退後、芸能界入りするも低迷していた時期が長かった渡嘉敷だったが
たけしの番組で使われるようになってキャラクターが付き、仕事も増えていった
そんな恩義を渡嘉敷は大きく感じていたらしく、また演出だと知らずに
こういう事態になった。
もちろんその後、すすだらけの顔とボロボロの服装に着替えたたけしが焼け跡から出現した事で
ドッキリ企画は終了したのだが、渡嘉敷の顔には安堵の笑顔と涙があった。
逸見政孝さんが亡くなった時、たけしは葬儀で子供みたいにしゃくり上げて泣いていた。
「たけし・逸見の平成教育委員会」で共演し、公私ともに本当に仲良く過ごし
お互いを理解し、評価しあった仲だった逸見さんがガンで亡くなった。そんな葬儀の席で
たけしはずっと小声で 「マーちゃん、早く来てあげられなくてごめんね、ごめんね」と繰り返してた。
95年たけしはスクーターで頭部および顔面を損傷する事件が起こり
意識不明から回復しリハビリに努め、なんとか復帰会見を開けるまでになった
しかしその顔は異様と言えるほど曲がり、強度の顔面麻痺によって
それまでのたけしのイメージからは程遠い悲惨な顔だった。
会見の中でたけしは自分の顔を逸見さんに似ていると言い
「逸見さんが守ってくれたんだろうな」と、彼の名前を出した。
そして97年、平成教育委員会最終回のエンディングでたけしに花束が送られた
小島奈津子に「6年間、長いようで短かったですか?」と聞かれたたけしは
「やっぱり、色々な人の事を・・」と言って言葉に詰まって、これが番組最後の言葉になった。
そして番組最後で逸見さんとの第一回終了後のトークが放送され、たけしと逸見の関係を偲ばせた。
ビートたけし責任編集「コマネチ!」を出版する為に
企画としてダウンタウンの松本人志を対談をした
お互いの芸などのことを対談し、2時間程で終了した所で
たけしは松本に「どうもありがとうございました」 って言って深々と頭を下げた。
たけしは結婚して20年間奥さんに人参が嫌いだと言えなかった。
「せっかく料理を作ってくれてるのに悪いから」だそうだ。
たけしが番組の収録が終わってスタジオを出た。
そしてあるスタッフがたけしの楽屋方向に用事があり、たけしの後をついていった。
するとたけしは楽屋につながる廊下の曲がり角の所で急に立ち止まり、何か思い出したように来た廊下を戻り始めた。
スタッフがどうしたんだと不思議に思い、たけしを追いかけるとスタジオ近くのベンチでタバコを吸い始めた。
スタッフが「どうしたんですか?」と尋ねたら、たけしは「いやなんでもないよ」と答えた。
スタッフはたけしに挨拶をして、用事を済ませようとまた廊下を歩いてたけしが立ち止まった曲がり角を曲がると、当時若手だった北京ゲンジがネタ合わせの練習をしていた。
「おはようございます!」と二人がが練習を止めてスタッフに挨拶をした。
その時スタッフはたけしが若手コンビを気遣い、ネタ練習の邪魔を自分がしないように戻ったんだとわかったそうだ。(北京ゲンジは現在解散し、お宮の松はピン芸人に、無法松は桐畑トールと「ほたるゲンジ」として活動する)
人情に厚いたけしらしいエピソードが満載でした。
おもわず心が温かくなってしまいました。
グランディール 鈴木